公開抗議

岡山大学准教授・中尾知代氏による    小菅信子らに対する執拗な誹謗、中傷、虚偽の流布について

公開抗議 (1)中尾知代氏は以下の指摘を真摯に受け止め、論拠を示すこと。   論拠を示せない誹謗中傷を即刻止めること。   MLや掲示板、SNSで虚偽を流布させないこと。 (2)同氏は可及的速やかに論稿の誤りを訂正すること。  国立大学准教授としての説明責任を果たすこと。 (3)とくに岡山大学機関リポジトリなどインターネット上に存在する、  中尾知代による小菅信子への誹謗、中傷など公正な論評の枠外にある記述、  虚偽の指摘を放置し続けた場合、損害賠償を請求されることもあることを、  中尾知代氏ならびにその雇用責任者は理解して置くこと。 (4)中尾の訂正/反論は、小菅信子の存命中に行なうこと。 (5)Wikipedia上の不正ないしは不適切な「小菅信子」についての  エントリーの訂正にたいして責任をもつこと。


中尾知代氏の論稿の誤り(1)
岡山大学 学術成果リポジトリ上の論文「捕虜問題をめぐる日英『和解』の断層(下)」(中尾知代著、『季刊 戦争責任研究』59号からの転載)の正誤表(但し、同論文テキストのみを対象とする・文中敬称略)

(1) 84頁上段2段落目~下段第1段落目「最近「和解」問題のコメンテーターとして登場が目立つ小菅信子氏の報告は、常に国策がいかに成功したかという情報に集中し、その影にある元捕虜の不満や鬱屈を語り消す。これを大使館が歓迎しないはずもない。両者の密接な関係と、小管氏側の大使館への過剰適応は、元捕虜のトラウマや怒りを存続させ、かれらの感情と日本の大衆の認識の間に、大きな溝を作ったのみならず、全体として今後の外交政策を誤導する情報源となっている」
⇒一方的な断定。根拠がない。

(2) 84頁下段第1段落第2行目「小管」 ⇒「小菅」の誤り。本論文中には、頻繁に「小管」という誤植が存在する。

(3) 84頁下段2段落目「拙論(中)の最後で、『和解』を巡る現象を整理した際、筆者は、小菅信子が自著や論文でなぜ成功談のみを抽出し強調するのか、その理由と調査方法を問題にした」
⇒(中)論文の該当箇所には、拙著『戦後和解』(中公新書、2005年)のごく一部のみが紹介されているだけで、前後の議論が無視されている。 また、捕虜問題を扱った小菅の著書や論文は『戦後和解』だけではない。『戦後和解』以前に出版されているものとして、たとえば謝罪・補償問題を中心に扱った著書だけでも、『連合国捕虜虐待と戦後責任』(共著、岩波書店、1993年)、『ハンドブック 戦後補償』(共著、梨の木舎、1992年)、「連合国捕虜」(『世界』1994年2月号)がある。 小菅は、『戦後和解』をはじめ、それ以外の論稿においても、捕虜問題の難しさや認識ギャップについて論じている。にもかかわらず、中尾はこれらの小菅の研究業績をあえて無視して、小菅を批難している。

(4) 84頁下段第3段落第3行目「恵子・ホームズの和解活動の限界や難点にかんしては、……、小菅自身も論文で捕虜の不満を一部記している」とあり、注1として小菅信子著「原爆に〈救われた者〉の語り――平和教育への一モチーフとして」(山梨学院大学生涯学習センター紀要第4号、2000年)が挙げられている(ただし中尾論文では出版年が欠落)。
⇒小菅の同論文には中尾が指摘する叙述はない。

(5) 85頁中段第1段落3行目「……と〔小菅は〕感動的に記している」
⇒「感動的に」という言葉はこの脈絡では揶揄。 (6) 85頁中段第2段落~下段第1段落「小菅は『世界』続編で「英国王立退役軍人会」会長グレアム・ダウニングのパーティ参加や日本訪問を喜ばしい知らせとして描いている。だが、ダウニングがその後、親日的にすぎるとして、会長の座を追われた事(日本と交流をもつ元捕虜たちが自国で憂き目にあうお馴染みの構図である)は記さない。『世界』続編(九八年)や『戦後和解』では、ケンブリッジの元捕虜デイが大使と親しく交流し感激した様子が語られるが、激しく怒り、許さないと言明した捕虜のことは描かない」 ⇒不正確。ダウニング会長は元捕虜ではない。また、ダウニングが会長職を退いたのは、ここで引用されている小菅の『世界』論文が刊行された後のことである。

(7) 85頁中段最終行~下段第1段落「要約すれば、小菅論文・著作では、ごく一部の元捕虜のサンプルがあたかも母集団全体を代表しているかのように描き、証明の手続き抜きで全体を「成功」に一元化するという手法が顕著だ」
⇒一方的な断定。小菅は捕虜問題について多くの論稿を出版しており、上のような書き方はきわめてミスリーディングである。とくにこの前後で引き合いにだされている『世界』掲載の小菅論文についても、同論文の趣旨と異なる方的な決めつけがなされている。

(8) 85頁下段第1段落「この事実にロマン主義的な筆致のせいで読者は気づきにくく、通常ならば反証する手段も持たない」
⇒文意不明。加えて、小菅の文章に対して「ロマン主義的筆致」と表現するのは、この脈絡では揶揄。証拠や論理を正しく検討しないまま、こうしたあざけり表現を用いて否定するのは学界の執筆ルールに反する。

(9) 85頁下段第2段落目以降「小菅氏の「和解の成功」説は限定した調査と限られたインフォーマントの情報に依る印象や伝聞が多い。元捕虜の現場・状況の学術的実証やフィールドワーク不足に加え、文書資料も、日本とは異なる特質をもつ問題の多い英国の新聞メディアや国会の議事録を史料批判無しに用いる上、外務省賛美の傾向が強く、それらが記述が偏る要因と考えられる。そもそも、小菅の英国滞在は一九九六年四月〜九八年三月で、戦後五〇周年の苛烈なVJデイの騒動(九五年夏)や、九八五月の天皇訪英時の過熱の際に現場にいなかったのも原因だろう。英国滞在中のフィールドワークもケンブリッジが多くを占める。間隙を埋めるインフォーマントは、日本政府が認め援助した和解活動家で占められる。ビルマ戦線日英同士会(BCFG)平久保正男ら、「和解と国際友情トラスト」会長のフィリップ・マリンズ(このトラストは、マリンズ・故ゴードン・グレアムの二名と日本側協力者の小菅の三者の団体)、フィリダ・パーヴィス(元大和日英基金マネージャー、現在はジャパンリンク代表、夫君は「ジャパン2001」を指揮した功績で叙勲され、天皇の親族と現在親しい)、在英日本大使館の人間が主だ。日本に反発する元捕虜の反応や声を収集したり記録した様子は、論文や調査報告、科学研究費成果報告書からは殆ど伺えず、英国の数々の「和解」関係の礼拝や催しへの参加も実際は少ない。」
⇒不正確かつ一方的な断定。中尾が小菅の研究活動や「インフォーマント」の全てを把握しているという思いこみの上に成り立っている中傷。根拠が示されていない。 また、ここで小菅の「インフォーマント」として挙げられているゴードン・グレアムと小菅は面識がない。
なお、「和解と国際友情トラスト」は「The International Friendship and Reconciliation Trust」(国際交流/親善と和解トラスト)の誤り。フィリダ・パーヴィス氏は大和日英基金「マネージャー」ではなかった。同様に、氏が主催する「ジャパンリンク」は「LinksJapan(リンクス・ジャパン)」の誤り。 さらに、85頁下段最後から2行目~86頁第一段落2行目までにあるフィリダ・パーヴィスへの批判については、パーヴィス氏本人が中尾に謝罪を要求し、2008年5月におけるロンドンの会合において中尾はパーヴィスに直接謝罪している(パーヴィス本人から確認)。 同様に、フィリップ・マリンズ氏への批判については、マリンズ氏本人が岡山大学・エセックス大学気付けで抗議を行ない、2009年8月以来中尾に対して本論文の英訳を手渡すよう再三要請している。
※この経緯については記録が残っており、ここで公開をする予定でいる。

(10)86頁上段第2段落「小菅の書き方――自分の見聞を適宜編集し『和解がうまく行った側面』のみを抽出し、捕虜らの厳しいリアクションを省略する――のせいで、捕虜問題の基本条件である英国の厳しさが伝わらず、情緒的な和解で問題が解決したかのような印象に読者を誤導している」とあり、注4として『朝日新聞』夕刊の記事が例として紹介されている。
⇒ここで「小菅の書き方」と一般化するのは論理の飛躍で中傷である。小菅は、捕虜問題の厳しさについて様々な著作において論じている。各著作において力点の置き方は異なるが、中尾がここで言うような「捕虜問題の基本条件である英国の厳しさが伝わらず、情緒的な和解で問題が解決したかのような印象に読者を誤導している」とするのは、根拠のない不当な断定である。 また、小菅は、ここで引用されている『朝日新聞』記事とまったく関係がない。

(11)87頁下段第2段落~第3段落「とどのつまり、小管の報告は、歴代英国大使・公使・書記官らが選びサポートした「和解」活動と、サン紙お詫び掲載や天皇訪英など、外務省が切った外交カードに対する牽強付会的な擁護である。そして和解の森・文化の夕べなど自らの関わった活動の「成功譚」というプロットに貫かれている。これらの成功報告は、橋本首相のお詫びや天皇訪英を企画・担当した当時の大使館員達―藤井、林、折田から野上に至る各大使、沼田公使、泉参事官(現中国公使)に至るまでの政策を直接・間接的に讃え、実効を持たなかった面を隠してしまう。小菅の報告は結局のところ日本国民に対して学問の装いをもったメディア・コントロールとしての作用を持つのだ。」
⇒一方的な断定であり中傷である。中尾論文が申し立てている小菅による「メディア・コントロール」の実態、政府への影響の実態などについて例証がなされていない。架空の議論の上に批判が展開されている。

(12)87頁下段最終行~88頁上段第1段落「それにしても、なぜ小菅は、虚実をないまぜ、装飾、編集し、マイナス面を無視し「政府による和解成功」だけを謳うのか? 彼女自身の成功の強調や大使館に阿る態度は一種権威志向に見える。和解に携わる者は〈和解の病〉でもいうような、「自分だけが和解を行える」という自信や宣伝が伴うことが多い」
⇒不当な断定。中傷。 「虚実をないまぜ、装飾」したという批判は、小菅のどの著作のどの部分から断定できるのか。「虚」にあたる部分は具体的にどの部分か。また「政府による和解成功」という引用符は、小菅のどの著作のどの部分からの引用なのか示されていない。

(13)88頁中段第2段落~第3段落「ともかく小菅の繰り広げる言説・報告にはこのような箇所は枚挙に暇がない。真の問題は、知り得た情報を都合よく継ぎ合わせて書く方法論だけでなく、この姿勢―〈大使館の政策成功〉の結論を先行させた理論展開と事象選択にある。」
⇒論理の飛躍、不当な断定である。著述を行なうに際して、叙述対象の取捨選択は必ず行なわなければならないことである。しかし、その結果として小菅の著作が「〈大使館の政策成功〉の結論を先行させた」と断定するのは論理の飛躍であり、中傷である。

(14)88頁中段第3段落最終部分「だが、日本では恵子・ホームズや小菅が説く「和解成功言説」が広まった。小菅自身が、大使館、とりわけ沼田公使に重用された後に果たした和解成功の広報的役割の影響は大きい。」
⇒具体的にそれがどのような影響であったのか証明されていない。一方的な断定。

(15)88頁下段第2段落「小菅自身は夫君と共に渡英しケンブリッジ国際センター講師で長を務めるフィリップ・トウルのもとで研究員になる前、油井大三郎と共著で『連合国捕虜虐待と戦後責任』の岩波ブックレット(一九九三年)も著していた。『戦争責任研究』に捕虜関係論文を発表し、名目上に近いとはいえ戦争責任資料センターの「捕虜問題関係」担当だった。九六年、ブックレットを契機に筆者は連絡をとり、九五年のVJデイ騒動を知らぬという彼女に、実態の過酷さを伝え、渡英するなら研究を継続するよう薦めた。」
⇒誤った思いこみの上で叙述がなされている。小菅の渡英と中尾は全く関係がなく、中尾の勧めと小菅の渡英や研究に関係はない。にもかかわらず、あたかも関係があったかのように叙述されている。小菅の私生活についての誤った叙述。 なお、「国際センター」は「The Centre of International Studies(国際研究センター)」の誤り。

(16)89頁上段第2段落以降「だが当初、小菅自身は捕虜問題に新たにかかわることには躊躇した。英国滞在を始め元捕虜に会い、専門家として参加を請われても、「現在は別のこと(赤十字)を研究しており、松居氏の興味深い提案にものりきれないでいる」と筆者にファクスで伝えてきた。九六年夏から筆者が英国で調査を開始しケンブリッジを訪問、共に会議をしようと誘い、会議支援の企業協賛金にも申込んだ。だが小菅には忌避感もあり、当人の言によれば、捕虜問題は自分の本意で始めたことではなく、ブックレットなども何も知らぬ大学院生をだましてやらせたも同然で、『戦争責任研究』執筆で歴史家として色がつくと言明した。九六年一一月のケンブリッジ戦没者慰霊祭での献花前夜も、捕虜問題と取り組む必要を説くこちらに、電話越しに、捕虜はいつか死ぬし、献花はするが、歴史家は歴史にかかわるべきではない、と否定的だった。筆者はかりにも捕虜研究をしてきた人が言うべきことではなく、誤解が続き未来の子供たちのむやみな叩き合いを危惧すると抗議した。」
⇒小菅の私的発言をきわめて不正確かつ曲解し、ミスリーディングなかたちで、本人にまったく断りなく引用している。また、中尾の側で言ったことが、中尾に都合よく省略されている。さらに、中尾が小菅の言葉に抗議した云々のエピソードが書かれているが、中尾にこの趣旨のことをいわれた覚えはない。 また、97年11月にケンブリッジ大学国際研究センターにおける会議の開催に関して、中尾は完璧に誤った思い込みの上で小菅を批難している。同会議は、ケンブリッジ大学国際研究センターに客員研究員として所属していた小菅と、同研究センター所長で小菅の指導教官であったフィリップ・トウルがオーガナイズしたもので、中尾はオーガナイザーの立場にはない。 以下の中尾自身の叙述からも明らかなように、中尾は同会議企画にきわめて強い興味を示し、積極的に関与したがったため、小菅はできるだけその期待にこたえようとはしたが、当時の中尾には捕虜問題についての学術業績がなく、ケンブリッジという特殊な都市(太平洋戦争中、郷土連隊が日本軍の捕虜となり苦汁をなめた)で開かれる学会で報告してもらうには、中尾の報告要旨(捕虜虐待をめぐる食文化の差についての報告)は、会議の英側オーガナイザーで最終責任者のトウルからみて「非学術的な」内容であった。

(17)89頁上段最終行~中段第1段落「小菅の忌避(と後の熱心さ)両方の行動原理の背景には日本特有の研究ジレンマとジェンダーの特質があるようだ。研究しつつアカデミックポストを待つ若手の状況では、研究内容と政治色をどうするかは困難な課題だ。特に歴史学分野における戦争研究は右左の分派対立の緊張のコンテクストに嵌まりがちだ。当時、本人は家庭と子供を持つ女性として、研究継続の可能性や捕虜研究が就職を遠ざける危惧を感じていた。」 ⇒一方的な断定。小菅のプライベートについての憶測がなされている。

(18)89頁中段2段落目「その後、ケンブリッジの慰霊碑の前でひざまずいて献花した様子が周囲の捕虜に感動(と反発)を起こし、一躍「時の人」なった彼女は周囲の反応に驚きながら、捕虜問題にとりくみ始め、聖書のサウロのパウロへの変身のごとき一八〇度の転換をした。」
⇒小菅はそれ以前から捕虜問題に取り組み、さまざまな研究業績を発表している。該当箇所後半の叙述では、学術論文としては不適切な譬えが用いられている。

(19)89頁中段3段落目「だが、その熱心さは、次第に捕虜問題の独占願望へと変容した。日本に対する報告でも、英国のVJデイの様子もそれ以前の他者の報告や論文は引用せず、新聞記事の再構成により彼女の発見のごとく『世界』に報告された。英国新聞のインタビューでも戦争責任資料センターの捕虜問題担当者であると述べ、日本の捕虜問題の関心の薄さを語り、既存の研究は伝えていない。」
⇒「その熱心さは、次第に捕虜問題の独占願望へと変容した」とするのは中尾の思い込みによる中傷。 また、「英国のVJデイの様子もそれ以前の他者の報告や論文は引用せず」とあるが、『世界』の論稿では、たとえばマークス寿子の著作などを紹介している。 「英国の新聞……」については、何を示しているのか不明であるが、新聞取材の場合、こちらが行ったことでも省略されることは多く、それを小菅の責任にするのはいいがかりである。

(20)89頁中段最終段落後半「全国退役軍人会会長に対し、小菅が無礼(rude:訴えた側に意図はないだろうが、女性が用いると性的な無礼行為の意を含みかねない)と訴えたこともあって」
⇒「全国退役軍人会会長に対し、小菅が無礼……と訴えた」事実はない。論拠を示せ。

(21)89頁下段第2段落「ミセス・コスゲは真実を見るに疎く誇張をしがちだった…操作的で自分がやること全ての舞台の中心でないと気がすまなかった。端的にいえば彼女は自分が、自分だけが、何でもできると信じる自己顕示(尊大さ)があった。ミセス・コスゲが大使館を満足させようとする強迫観念は偏執的の域に達し、私は彼女を大使に褒めるよう絶えず依頼されていた。」
⇒中傷。論拠なし。

(22)89頁下段第3段落「それまで注目度が低く政治活動の一環のように目された捕虜研究に関心を失っていた小菅自身は、突然のレコグニション(認証)を得て戸惑いつつ陶然の風だった。一九九六年一一月以後、捕虜問題に執心する様子に周囲は、やや面喰いながらも当初は歓迎した。だがある時期からその姿勢は、大使館とのタグ・マッチによるアカデミック・コントロールに大きく寄与することになる。
⇒憶測と中傷。

(23)90頁上段第2段落目「小菅は、ケンブリッジでは文化を紹介し日本への関心を呼んでから対話を進めるべきと地元民にアドバイスを受けたため、文化の会を開きたいので藤井大使夫人などの参加を願うと述べた。松居は、捕虜・戦後問題解決の会議や公平な対話の必要を論じ、会議アレンジを提案し、奨励された。筆者は会議の提案と共に捕虜の細やかな痛みを知る必要性と日英間の亀裂の将来的影響の懸念を伝えた。過去のインタビューをもとにテレビ局で九五年に制作した捕虜の番組(『英国50年目の夏、朝日系列フリーゾーン2000』)をすでに視ていた大使館側は、オーラル・ヒストリーで分かる元捕虜の実態を伝えて欲しいと言った。その後、再び、小菅と筆者は外務省調査員にと請われ、筆者は、文化の催しに資金が必要とし、研究継続を願う小菅に、初年度の機会を譲った。」
⇒小菅についての叙述は不正確。 また、この大使館での会合で小菅がケンブリッジでの捕虜会議について提案しなかったのは、それまでに中尾があたかも自分がその会議のオーガナイザーになったかのように思い込みはじめたように見えたため、あえて中尾が出席するこの会合では言及しなかったという小菅側の配慮があった。 外務省調査員の初年度の機会を中尾が小菅に譲ったというのは、中尾の思いこみによる叙述。

(24)90頁上段第3段落目~中段第一段落目「ケンブリッジの文化の会の詳細を記した、小菅発表の『世界』論文(一九九七年一一月)では、以下のような物語となっている。「文化の夕べ」の二回目、八月一五日の会に、ロン・ウェルズら主催者が日本大使館に招待状を送ると「藤井宏明日本大使(当時)夫妻が会場に姿をあらわし……日本大使と元英軍捕虜との〈対話〉―不思議な和が会場を覆った」等、奇跡的な出会いのような描写が続く。しかしこの催しは当初から大使館の理解のもとにあり、藤井大使側には参加への合意は存在した。また後述のごとく、この時期の小菅は一一月開催の非公開の捕虜問題会議のため、大使館と密接に連絡を取り合っている。参加した藤井大使自身の決断は尊重されるが、文化の会が盛り上がり自然に大使を招き入れたかのように日本に伝えるのは、「和解に利用されたナラティブ」だ。」
⇒文意不明な批判が小菅に対して浴びせられている。ここで引用されている『世界』論文を曲解した上で、小菅を批判している。

(25)90頁下段第1段落「ヤスメクラブは結局、小菅らの試みにもその態度を変えず、翌年は彼女が献花しないように整えた」
⇒根拠が示されていない。

(26)90頁下段第2段落「桜と藤の造花が枝垂れるホールで日本舞踊、日本食・日本酒の振る舞い、茶道に着物展示、舞妓や芸者の写真、折り紙に大使館の「日本に行こう」ストールが並び、バレエや英国軍歌を組み合わせ、和装の研究員らが捕虜らとワルツを踊るなど、工夫を凝らした「文化の夕べ」を喜ぶ現地の人も確かにいた。日本食を喜ぶ子供もいれば、会の途中で雰囲気に居たたまれず逃げるように場を去る元捕虜もいた。」
⇒中尾は三度開かれた交流会のうち一度しか出席していない。かつ、主宰者の許可をとらず、なぜか在英日本大使館の一等書記官の承諾のみを得て、セルフ・インビテーションで参加した。にもかかわらず、あたかも毎回交流会に居合わせたかのように叙述するのは不正確。 また、「元捕虜」云々についての叙述は根拠がない。

(27)90頁下段最終段落以降「三、日英捕虜問題会議―アカデミック・コントロール‥会議の変貌  この会議は当初、秋に日本に帰国した松居[竜吾]が小菅や中尾の協力のもと日本側の計画を担当するはずだった」
⇒中尾の思いこみに基づく叙述。

(28)90頁上段第1段落「小菅は新たに「これを機会に何かしたい」と平久保にファクスで会議を提案した。そのころ松居は日本で小菅から委託され(のちに小菅は松居が勝手に始めたと述べている)、会議の協力者を募り、捕虜問題に理解の薄い日本に対し英国の状況を説明し、会議参加説得を開始した。だが年があけ、天皇の訪英計画が持ち上がり、夏前に沼田公使と小菅の食事会談の後、小管は会議について口をつぐみ、突如「会議は小菅=トウル・ラインで行う」とのファクスが関係者に一方的に通達された。結局、人選は一切が小菅らと大使館に掌握され、それにより会議の内容は変化し、書籍として出版されるにあたり、内容は一層変化した。会議の顔ぶれと会議の論文集の題目を本論最後にリスト化したがそれを見れば一目瞭然であろう。」
⇒誤った認識の上で小菅を批判している。同会議はケンブリッジ大学国際研究センターのトウル所長が中心になり、日本側は小菅がコーディネータになって計画されたものである。助成金も国際研究センター宛てに交付されている。

(29)90頁上段第2段落「沼田公使と元日本大使ボイド氏との交流もあり、会議は大使館の〈庇護下〉でのケンブリッジ国際センターでの開催が正式に決定され、同時に一種の猿轡ともいえる条件が附帯された。」
⇒誤った認識のもとに書かれている。 なお、「国際センター」は「国際研究センターの」誤り。

(30)90頁上段最終行~中段「以下は当時会議関係者に〔小菅から〕送付された連絡事項である。『開催の経緯と運営については、本会は、大和日英基金および在連合王国日本大使館より資金援助を、国際研究センターの協力を得て開催されます。会の準備・実行についてはトウル博士がその責にあたり、ラージ博士、ワイリー博士および小菅がコミッティーとして協力し、とくに日本人招待者の推薦と出席交渉につきましては小菅が担当しております。 課題:本会は「第二次大戦期の極東における捕虜取り扱い」にさまざまな研究領域から焦点をあわせ、学問的・非政治的な論議を通して新たな研究視座を提示するということを大きな課題としております。中立性の維持と冷静で充実した議論の実現のため、以下の点にご留意ください。(1)感情的感覚的な議論をさけること。(2)個人データに依拠する報告やコメントをさけること(個人の証言や個人を資料としないこと)(3)「戦後補償」は扱わないこと(「回復・復興」の問題として論じることは可)(4)「和解」を議論しないこと 公用語を英語とし、日本語での報告・議論はご遠慮ください。非公開性:本会は非公開となっております。傍聴はできません。事前および会後、学会の情報をマスコミ・雑誌等に公表しないようお願いします。』(傍線筆者)」オーラル・ヒストリーの手法で、捕虜と日本側の文化摩擦を研究していた筆者はこの条件だと発表が不可能なため問い合わせると以下の返答を得た。『「(捕虜)個人データ」に基づいた報告および議論を行わないことはコミッティーで同意され、さらにスポンサー(大和日英基金)との契約の一部となっています」…「個人に基づいたデータに基づく議論や報告は、大和日英基金との同意に反するおそれがある…、「個人データ」(公刊未刊とに問わず)に基づく議論はえてして感覚的印象的なものになりやすく、冷静な議論のさまたげになるという配慮があります」
⇒中尾は上の議論を通して小菅を批判しているが、学術会議において何を論題とするかは、会議オーガナイザーの責任と権利に属するものである。ましてや、上の事例を根拠に、中尾のいう小菅による「アカデミック・コントロール」があったと断定するのは一方的な断定、中尾の思いこみである。

(31)90頁第3段落「だが、会議のコメンテーターの役割を依頼された後、個人証言引用の可否を再確認すると事態は変わっていた。小菅によれば「その点はジェイン・フラワーが出ることになったから、どうでもよくなった」。つまり、付帯条件は、個人証言の信憑性や学問的中立性というより、日本政府に補償と謝罪を請求する政治的ポジションを崩さないジェイン・フラワーを回避することが目的だったことになる。」
⇒誤った認識、憶測の上に小菅を批難している。  率直に当時の状況について説明すれば、上の小菅の説明は、あくまでも中尾に対する配慮のもとに、中尾に対してなされたものである。 中尾は当時エセックス大学の留学生で、小菅を通じてこのケンブリッジの会議にきわめて強い興味を示した。当初、小菅はなるべく中尾の気分を害させないような態度をとった。平久保や松居は、この会議のオーガナイザーはトウルと小菅であるという旨を了解したが、中尾だけは、自分が会議のオーガナイザーの一人だと思いこみ、頻繁に企画に容喙した。しかしながら、客観的に言って、当時の中尾は英文学の分野では優れた学術業績があったものの、捕虜問題に関する活字業績はなく、かつ中尾の提案は質の高いものとはいえなかった。 また、中尾は、小菅に対してしばしば、 (1) 小菅は左翼的な研究者であるから、大使館は小菅に会議を主導させることに警戒感を見せている、 (2) とくに小菅がそれまでに取り組んできた捕虜虐待の実態や、謝罪・戦後補償問題を、会議でトピックとして扱うのではないかと危惧を大使館は中尾に表明している、 (3) そのために大使館が助成金の支払いを躊躇している、 という趣旨のことを述べ(小菅の夫が同席している場所でも、同じことをくりかえしていた)、ゆえに、 (4) 国立大学の教員として大使館に信頼されている自分〔中尾〕を会議に参与させることが得策である、 と説明していた。 しかしながら、中尾には捕虜問題の分野の学術業績がいまだ乏しく、中尾が会議で報告を望んだテーマは、捕虜虐待と日英文化差(とくに食事の文化差)に関わるものであったため、同会議の英側オーガナイザーであり最終責任者である国際研究センターのトウル所長は、「日本人はコメが好き、イギリス人はビーフが好きといったような議論は学術的ではない」として、中尾の報告要請を却下した。これは、あくまでも学術的な判断であった。


(32)91頁最終部分~下段第1段落「これは大使館が捕虜問題研究に最も詳しい内海愛子の参加を回避したのと同根だ。天皇訪英計画が提出されてから、大使館サイドは、補償や謝罪問題の扱いについて非常に神経質だった。内海の研究は朝鮮人軍属に対する共感に基づく日本批判と反省の要請が前面化するため、当時、会議を担当した泉書記官はその点に怒りを示し参加に反対した。戦犯問題研究家のジョン・プリチャードにも同様の警戒が向けられた。」
⇒大使館の意向は別として(泉書記官が「怒りを示し参加に反対した」という事実を、小菅は知らなかった)、会議の英側オーガナイザーで最終責任者のトウルは内海愛子氏の招待に反対した。ただし、これは学術的な判断であり、何ら政治的な判断ではない。 なお、ジョン・プリチャード氏についての叙述は不正確である。


(33)92頁上段第3段落~中段1段落目「筆者らが当初、捕虜問題の会議を構想したときは、帝国主義・植民地主義・比較文化、タイや元植民地の位置づけやアジア・ロームシャ問題、国際法などが念頭にあった。だが、結局、日本側からは長期的に捕虜・抑留者問題に通暁した人材はあまり呼ばれぬ会議となった。岩波書店の馬場公彦氏も招かれた。トウルが発表要旨に関心を持たなかったため松居の発表は計画から外れたが、いずれにしろ、夏以前に、松居は会議の成功は大事だが、小菅と関わりを一切持ちたくないと述べ、会議の成功を祈ると言い置いて会議アレンジから手を引いていた。」
⇒中尾の誤った認識と思いこみの上で、小菅に対して批判がなされている。繰り返すが、中尾は、ここで中尾が批判する会議のオーガナイザーではない。 また、小菅は、1997年の春の段階で、松居から直接に電話で連絡を受け、自分(=松居)は捕虜問題を専門としているわけではないのでいずれにせよ降板したい旨と、中尾は会議のオーガナイズは自分でやるものと思い込んでいる旨を小菅に告げ、そのうえで、たとえ現実には中尾がオーガナイザーでないにせよ、中尾はこの会議に非常に関わりたがっているので、参加だけでもさせてやってほしいとの説明を得た。

(34)92頁中段第3段落「あらゆるマニピュレーションと全体を抱え込もうとする一種の権威志向を差し引き好意的に見れば、小菅が、政治的制限のもとで彼女なりの理想を実現しようと必死の努力や交渉をした事は察せられる。だが会議一ヵ月前の『世界』報告文や、会議後の各種報告では、大使館の意思に必死に沿いつつ自らの功績に焦点を当てる姿勢は否定しがたい。誰もこんな会議を喜ばないと憂えていた小菅も、その後、職を得て日英で論文集が出版される頃には、自らの拙い部分やアカデミック・コントロールは語らず、和解活動研究家「マーガレット・コスゲ(マーガレットは婚姻に際しカトリックに改宗した洗礼名とのこと、英語版はこの名で出版)」を悲劇のヒロインとする「和解のナラティブ」を構築し、自らを前面に押し出し、和解の成功言説はさらに強化された。」
⇒中尾の誤った認識と思いこみに基づく一方的な断定と中傷。 なお、小菅が婚姻と同時にカトリックに改宗したという事実はない。

(35)92頁下段第1段落以降「だが、まだ会議の段階では林博史や捕虜問題に詳しい永井均は会議に参加していた。その後、会議に基づく論文集が木畑洋一、マーガレット・コスゲ、フィリップ・トウル編集(実質的には後者二名と木畑は述べる)により、英語版として出版された。だが依然政治的色彩はつきまとった。出版日は捕虜に対して英国政府が恩賜金支払いをする決定の広報の「偶然」一週間前となったし、論者も選択された。論文集に個人補償要請の可能性について藤田久一が触れているが全体からすれば一部だ。同時に、会議の中にかろうじて残っていた二つの大事な要素が姿を消した。駒込武や日本統治下のビルマについて発表した根本敬の論文が消えたため、捕虜問題と日本の大東亜共栄圏構想の関連や、元植民地の声は議論の遡上から消えた。また、日本軍批判の強い林博史の論じた、「日本政府の中国人捕虜扱いの過酷さ」や、永井均「BC級戦犯処理を自国で行い挫折した経緯」の論文も掲載されず、そのため、捕虜問題に対峙する研究者や日本批判をする日本人研究者は不在だとの印象を、英国側に強く残した。林らには不掲載の連絡や編集方針の説明は無かった。」
⇒中傷。論文集の編者がどの会議参加者に執筆を依頼するかを選択するのは編集権に属するもので、学界では当然のことであるにも関わらず、そのことで批難がなされている。  なお、本の出版期日は出版社が決定するものであり、そのことで小菅を批判するのは不当である。  さらに、論文集に論文を収載しなかった会議参加者に対しては、小菅は経緯を説明している。

(36)93頁中段最終段落「フラワーやプリチャードの論文は村山資金により五巻組で出版された『日英交流史』の軍事編に掲載されている。」
⇒事実の誤り。これらの二氏は、ケンブリッジの会議に提出した論文を、『日英交流史』に寄稿していない。

(37)94頁中段第2段落「コータッツィはその批評文で、トウルが最初に「西欧では捕虜問題は常に興味と関心を呼び起こしてきた」とすることに異議を唱え、「捕虜問題(the issues)の実情にはそぐわない(do not justice to)」、それより人道に対する普遍性を主張したほうがよい、と述べる。だが小菅はこの箇所を誤訳し、「捕虜の受けた不当な苦痛についての道義心を欠いた叙述がある」と知日派でしられる英国人の批評で厳しい批判を受けた(傍線筆者)」と訳し、不当であるかのように記している。だが、ここでも、問題の本質は誤訳自体ではない。これら誤訳やノーブルの例など巧みに編集された物語を、自らの行為を正当化する「装置」に利用したことである。」
⇒曲解に基づく一方的な断定と批難。

(38)94頁中段第2段落~下段第1行目「実際、フラワーやプリチャードなど補償賛成派の会議参入を許したことは、会議オーガナイザーとしては、大使館や大和日英基金の意図に反する失策となる。それゆえ、ノーブルを無茶な捕虜として表象し『世界』報告でフラワーを持ち上げ、本出版を喜ぶ地元の様子の広報など、種々の方策により失策を消す戦略が図られたようにみえる。大使館の意志(と彼女が解釈した方針)に沿って論文集を刈り込んだ事実やアカデミック・コントロールを語り消す目的にノーブルやコータッツィを用いたのは問題だし、ヤスメクラブの手紙の、我田引水的な引用も元捕虜らに失礼だ。全体として和解成功をフェイクしたことが読者や元捕虜に最も危険な点だといえよう。」
⇒思いこみに基づくたびかさなる批難と中傷。

(39)94頁下段第2段落「「和解成功言説」は、東京大学出版会・中公新書・『世界』などの媒体への信頼性に支えられ読者と和解成功の「信者」を増やし、石橋湛山賞のお墨付きを受け、独り歩きを始めている。それを広める小菅自身も、自分の書いた幻を信じているのではないかと思えるほどだ。」
⇒たびかさなる論拠のない叙述。中傷。

(40)94頁下段第2~3段落「以上、拙論の上・中・下において、日本に伝播する和解成功言説と、英国の実態の誤差、日英の和解解釈のずれ、それらを招く情況を考察した。では「誤ったフィードバックである「和解成功言説」は、はたして我々をどのような問題に導くのだろうか。第一に、元捕虜の現実の苦しみが日本に十分伝わらず、捕虜が赦し癒されたと思い込む日本側とのギャップを広げた。日英和解が議論されないのは成功のおかげではなく、当事者の減少と、日英双方で意図的に作られた無関心の故だ。」
⇒一方的な断定。本箇所のみならず、中尾は小菅が「和解成功言説」を広めたと強調するが、たとえば小菅『戦後和解』が中尾のいうような「和解成功言説」で「メディア・コントロール」なるものを行なった具体的で明らかな因果関係のある事例を、中尾はまったく挙げていない。 

(41)94頁上段第3段落「第五に、フィクションともいえる『戦後和解』のために、中国や「慰安婦」問題に、日英和解の前例を当て嵌める動きが起こり、一部を小管が担っている。だが数々の誤報に支えられた空中楼閣の幻の成功例を他国に当て嵌めても虚しく、当事者を侮辱するだけだ。」
⇒一方的な断定。中尾の議論は、全体として、小菅『戦後和解』の内容について極度の曲解が頻繁に行なわれており、かつ批判の根拠を明確に示していない。

※以下は全体的な論証の誤り


(42)本中尾論文には、(上)(中)(下)にわたり、和解の「大成功」言説が、小菅の『戦後和解』のせいで「日本で確定されつつある」といった内容の叙述が繰り返しなされているが、どのように「確定されつつある」のか例証はなされていない。架空の議論の上に批判が展開されている。

(43)『戦後和解』についての読解不足による速断、ごく一部の叙述を歪めることによる偏った議論が頻繁に展開されている。ごく一部の特定の叙述だけを不適切に強調し、それに反する他の叙述や主張を無視する議論は、強調の虚偽(fallacy of accent)である。


(44) 時間的前後関係と因果関係の混同、原因の極端な単純化が頻繁になされている。


(45)手前勝手な議論(special pleading)や対人論証(=議論そのものではなく、小菅の人格や性格あるいは文体などによって議論の当否を判断する)、無知に乗ずる論証の誤り(=読者の側で立証・反証が不可能であることに乗ずる誤り)、あざけり(標題の議論に直接関わらない問題であざけりを行なうこと)がなされている。

以上、該当論文テキストのみを対象とした正誤表
※中尾の該当論文にかんする吉田裕編集長の謝罪文




中尾知代氏の論稿の誤り(2)
『岡山の記憶』2009年7月号掲載、 中尾知代ホームページhttp://www.powow.asia/index.php?top...、中尾知代著「軍事協力と「和解」の奇妙な関係 ―日英和解はいかにして憲法改正と再軍備に利用されるか―」の正誤表(文中敬称略)

【本文】
(1)75頁下段第2段落~76頁上段「村山資金(一九九五年から十年間の「平和友好交流計画」予算)が尽き、恵子ホームズ氏の活動に対する政府援助が終わりを告げる二〇〇五年から、今度は急速に、小管信子氏が『戦後和解』(中公新書)等において「歴史家・国際関係学者・和解活動家」として、在英日本大使館、恵子ホームズ氏と彼女の和解活動の努力の成功面の称揚を、強化し始めた。(成功を強化すると、彼女らへの資金はかえって打ち切られるという矛盾はあるにも関わらず)。この中公新書には幾つかの重要な錯誤や誤った情報の存在が、それぞれの地域の専門家から指摘されたが、著名な学者たちが「あとがき」に引用され権威づけがなされていることもあり、内容を信じた読者も多い。」
⇒「小管」は「小菅」の誤り。 また、「幾つかの重要な錯誤や誤った情報」についてはどのような媒体で誰が指摘したのか、根拠が示されていない一方的な断定、中傷。

(2)76頁上段第2段落「続いて出た、『ポピーと桜』(二〇〇八年、岩波書店)では、ケンブリッジ新聞の十三年前の一九九六年の夕刊記事、十一十一日の戦争記念日の記事が紹介された。慰霊碑前での「日本女性のひざまずき」(小管氏がひざまずき祈る姿。当時は個人としてより、「日本人」の良心的謝罪の象徴として注目された)を『涙と友情』と銘打って、コンロン記者が掲載した記事だ、」

⇒不正確な記述。「ケンブリッジ新聞」は、当時は『ケンブリッジ・イブニング・ニュースCambridge Evening News』という名称の日刊新聞。同記事の掲載が1996年11月11日。Remembrance Dayを「戦争記念日」と訳すのは不適切。同記事はタイトルは「友情の涙」。「コンロン記者が掲載」の文意不明。同記事を「掲載した」のは「コンロン記者」ではない。また、同記事は同新聞に繰り返し掲載された。なお、「小管」は「小菅」の誤り。


(3)76頁中段第1段落「「世界」に小管氏の報告掲載を担当してきた編集者、馬場公彦氏も、自ら、大使館主催の日英和解の政策に小管氏を通し協力した。馬場氏は、評論家として〈ビルマの竪琴が和解に使われた経緯〉の著作をあらわす一方で、(注1)、小菅氏の「世界」論文と二つの著作を、NHKで仕事をするラジオ放送作家に勧め、二〇〇九年五月二一日、二二日に、小菅信子氏の成功の語りが「ラジオ深夜便」で流された。この感動的内容は深夜便のテクストを通し日本全土に宣伝・披露されることになった(『ポピーと桜』小管信子著、岩波書店、二〇〇八年、同『戦後和解』二〇〇五年、中公新書、馬場公彦『「ビルマの竪琴」をめぐる戦後史』馬場公彦著、法政大学出版局、「ラジオ深夜便」テクスト八月号)」

⇒「小菅」を「小管」と表記する誤りが頻繁に繰り返されている。 小菅とロンドンの日本大使館との関係について一方的な断定がなされている。 なお、「小菅氏の「世界」論文と二つの著作を、NHKで仕事をするラジオ放送作家に勧め、」という事実はない。 「感動的内容」「宣伝・披露」という表現はこの文脈においてはとりわけ侮辱。

(4)76頁中段第2段落「産経新聞も、二〇〇八年秋、天皇訪英の際に日本国旗を焼いた元捕虜ジャック・カプラン氏が、「訪日して親日派になった」点を報道し、日本経済新聞や毎日新聞も、なぜか小管氏以外にソースの無い「和解成功」を報道し続けた。

⇒「小菅」を「小管」と表記する誤りが頻繁に繰り返されている。  「日本経済新聞や毎日新聞も、なぜか小管氏以外にソースの無い「和解成功」を報道し続けた。」とあるが、具体的に何をさしているのか根拠が示されておらず、あたかも小菅がこれらの新聞メディアに誤った情報を流し続けているかのような印象を読者に与える。

(5)76頁下段第2段落「しかし、このように、日本を訴え続ける怒りの声は、なかなか日本に届かない。現場で調査し、日本に元捕虜らの言い分を精密に記録し届けても、その声は(「季刊戦争責任研究」第五七号、五八号、五九号)、政府・和解活動家・一部メディアの奏でる「和解」のコーラスにかき消されてきた。いったいなぜ、〈現在も元捕虜の痛みは残る〉というシンプルな事実から、日本人の大半と日本政府、そして一部の活動家・歴史家は耳をふさぎ、和解成功を謳い続けるのか?」

⇒中傷、不正確な記述。前の文章によって、ここでいう「和解活動家」に小菅が含まれていることは明らかであるが、小菅は、本論文が出版される前の1年間に限っても『ポピーと桜』はもとより、『歴史和解と泰緬鉄道』(共著・朝日新聞出版、2008年)で〈現在も元捕虜の痛みは残る〉ことに触れている。

(6)81頁下段第3段落~82頁上段「たとえば、日本の捕虜への和解志向傾向を強調した『捕虜と戦争の記憶』(日本では東京大学出版会が出版)の英国版は、そもそも、ケンブリッジのシンポジウムの論文集だった、だが日本軍を批判した日本人研究者の論文は全て取り除かれた。すなわち、英国人の日本批判の基盤となる論文は、編集者らにより消去され、和解や国際条約を尊敬する日本像が強調された。しかも出版時期は「偶然」にも、予定を早め、ブレア政権が元捕虜に「慰労金」として、捕虜の日本政府訴訟抑制のためでもある約二〇〇万円を拠出決定する直前に動かされた。予定を締め切られた人や、掲載の判断をした各自は、意識しようとしまいと、結果は、まるでそういう効果が生まれるように、何かの「見えざる手」が組み合わせたかのようだ。(一連の学者の和解政策への意識的・無意識的協力体制への各種疑問は『季刊戦争責任研究第五九号』参照)。注2. とりわけ、各首相の「お詫び」は英豪等の捕虜裁判の直前に出ることは、英国の新聞でも意図的ではないかと指摘された程である。 これら学術会議や民間人協力者の動きにおける、誰が主体か不明な「操作」の後に行われたのが、平沼衆院議員主催の海軍中佐工藤俊作顕彰会(http://www.bushido-seishin.com/、平沼議員のオフィシャルホームページにリンク)だ。これはいかなる意味をもつか。」

⇒書名の誤り。正確には、東大出版会から2003年に小菅・木畑洋一・トウルの3人の編で出された本の題名は『戦争の記憶と捕虜問題』(なお、2000年に英国で出された同書のタイトルはJapanese Prisoners of Warである)。 また、「日本軍を批判した日本人研究者の論文は全て取り除かれた。すなわち、英国人の日本批判の基盤となる論文は、編集者らにより消去され、和解や国際条約を尊敬する日本像が強調された。」「結果は、まるでそういう効果が生まれるように、何かの「見えざる手」が組み合わせたかのようだ。」は中尾の思いこみによる一方的な断定。
【注・資料】
(7)「注2。本論、特に59号については、小菅氏に反論があればしてくるように呼びかけたが、遺憾ながら、「ポピーと桜」の中の、奇抜な、事実飛フィクションの混ざった挿話という形でしか、主張はされず、「戦争責任資料センター」「の吉田裕編集長への「お詫び要請」という動きしか招けなかったのは、筆者の不徳の致すところであろう。なお、「編集長から」の文章は、繰り返された、お詫び文要請のあとに記されたものであるが、吉田氏が、議論の余地は残す良心を堅持された文であり、全文を読まれたい。五九号の文章は、「和解の政治学」所収の内容を、実証性を高めよという編集図に沿い編纂した。」

⇒小菅の著書に対する根拠のない断定、中傷。 また、「なお、「編集長から」の文章は、繰り返された、お詫び文要請のあとに記されたものであるが、」について根拠が示されておらず、あたかも小菅が「お詫び文要請」を繰り返したため謝罪文が掲載されたかのような印象を読者にあたえかねない。  吉田裕氏は、小菅信子あてのメール等において、同文章がお詫びであることを確認している。そうでないと中尾氏が主張するのであれば、明確に根拠を示すべきである。


※上記引用文中の誤植は原文のママ

※※本件抗議にかんする『岡山の記憶』編集部長(当時)は、個人情報をおろそかに扱い、適切な回答もよこさなかった。同回答は恫喝的であり、MLでいっせい配信されたため公開文書とみなし、本サイトにアップロードを予定している。
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中尾知代氏の論稿の誤り(3)

この記事で、中尾氏は、小菅が出演した「NHKラジオ深夜便」を非難したうえで、イギリスの地方紙『ケンブリッジ・ニュース』が、「昨年〔二〇〇八年――筆者〕十一月の戦争記念日特集で『ジャングルの犠牲者(タイメン鉄道の犠牲者)は正式な謝罪を日本から得るべきとの見解を我が社は支持する』と宣言した」と述べている。


しかし、ケンブリッジ大学のフィリップ・トウルがケンブリッジ・ニュース社に直接照会したところ、そのような「見解」を同紙が支持した事実はなかった。念のため、トウルは、同紙編集部に要請して同社のパソコンのデータに全検索をかけたが、やはり『東京新聞』の寄稿記事が主張するような「見解」も「宣言」も存在しなかった。そもそも、『東京新聞』に引用された右のようなセンテンス自体、同紙のデータベースの中に発見することができなかった。 (『ケンブリッジ・ニュース』紙は、他の地方紙と比較して、日本軍のイギリス人捕虜虐待に関する記事が掲載されやすい傾向にある。それは、小菅がすでに他稿でも論じてきたように、[i]ケンブリッジ地方の郷土部隊が第二次世界大戦に際して日本軍の捕虜となり、泰緬鉄道などで多くの犠牲者を出したからであり、その苦悩の記憶ゆえに、とくに日本に対して強い感情を抱いてきた地方の地元紙だからである。)


他方、中尾氏は、以下の二〇〇八年一二月四日付『ケンブリッジ・ニュース』紙に掲載された「元捕虜は『虐待についての謝罪を受けるべきだ』お詫びはいまも必要と語る日本人教授〔=中尾氏〕」と題する記事についてはいっさい言及しない。




上の記事は、ご覧のように、「日本では多くの人々が和解は達成され、元捕虜はもう満足していると信じこまされているが、私はそうは思わない」「われわれ〔日本人〕は謝罪する必要があると私は確信している」と主張する中尾氏自身のコメントの連続引用で構成されている。[ii]
 
だが、上のように、同じ紙面で、「赦して忘れるべき時」がきたと語り、日本から謝罪や戦後補償を求めることに異義を申し立てるイギリス人元捕虜のコメントがあわせて掲載されている。イギリス人元捕虜による「赦して忘れるべき時」の記事は、日本人大学教員のコメント部分に比較するとスペース的には小さいが、元捕虜本人の写真が入った、強調字体のコラム仕立てになっている。 そして、記事の最後で、「日本は謝罪するべきか」についてのインターネット投票が呼びかけられている。
 
この世論調査の結果は、現在、ケンブリッジ中央図書館が保管している。投票の結果は「謝罪すべき」が六五パーセント、「謝罪すべきでない〔あるいは、しなくてよい〕」が三五パーセントであった。 記事の内容と構成、インターネットによる投票、すでに述べたようなケンブリッジ地方の特殊事情を考えると、この投票結果には、とくに驚くべき点もなければ、軽んじてよい理由もみあたらない。

投票結果についても、中尾氏はいっさい言及していない。 問題は、「事実を意図的に無視することで、曖昧さや不誠実な表象、憶測や敵意の継続が助長されてしまう」(ジャック・チョーカー『歴史和解と泰緬鉄道』朝日選書より引用)ことである。ケンブリッジ地方の苦悩の記憶を考慮すれば、中尾氏は、「事実を意図的に無視」し、かつ意図的に自分で問題を起こして自分でもみ消そうとしているように見える。かりにそうした行為で中尾氏が利益を受けるのであれば不当である。

中尾知代氏は自身のHPhttp://www.powow.asia/article.php?story=20090823144340112 で、いまなお、東京新聞の寄稿記事を紹介し、元捕虜ジャック・チョーカー氏の手記の日本語翻訳出版を紹介する朝日新聞編集委員(当時)外岡秀俊氏の記事を歪曲して伝え、さらにマッチポンプ的な言論をくりかえしている。

[i]ケンブリッジの苦悩の記憶と和解については、小菅信子『ポピーと桜――日英和解をつむぎなおす』、同「小さき物語の群れから」(宮本久雄・金泰昌編『他者との出会い』東京大学出版会、二〇〇七年)、同「赦しの織物――リクールまでの旅」(『ソフィア』第五六巻二号、二〇〇八年二月。小林章夫編『本を生きる』上智大学出版、二〇〇八年に採録)を参照。


[ii]中尾氏のコメント記事については、『ケンブリッジ・ニュース』社のウェブサイトで閲覧が可能である。ただし、見出しは紙媒体のそれと若干異なる。http://www.cambridge-news.co.uk/Cam... (最終アクセス二〇一一年二月一四日。)

付記 のちに東京新聞文化部は、この中尾氏の記事について公開の場で小菅にお詫びした。



(4) Tomoyo Nakao's continuous argumentum ad hominem against Nobuko Margaret Kosuge and her old colleagues

On the top of the false arguments made by Tomoyo Nakao against Nobuko Kosuge as above, Kosuge should also add here, firstly, that after the Leeds Conference on History and Reconciliation held in 2011, for more than a year, this paper could be quoted without the authorʼs permission or Mrs. Phillida Purvis,ʼ in order to avoid any argumentum ad hominem. It should be noted that prior to the Conference, very a few misleading mass-email letters about Mrs. Purvis, Professors Nish and Kei Nemoto (Sophia University) as well as Kosuge were sent out towards dozens of individuals internationally from the Japanese scholarʼ working for the University of Okayama, Japanese local, national university and providing her own website, http://powow.asia Mr. Philip Malins, one of the contributors for History and Reconciliation, and a speaker at the Conference, has left the author his paper to rebut Tomoyo Nakao, the Japanese scholar, and her continuous false arguments. For the moment, about Malinʼs story, see the obituary, Times, 17 April 2012;
小菅信子「和解に生きた英退役軍人」『毎日新聞』2012年5月6日。).



(5) Tomoyo Nakao's continuous argumentum ad hominem against Nobuko Margaret Kosuge and her old friends


The following email message from Tomoyo Nakao, University of Okayama, which was also sent out towards some more 50 academics and others over the world, by mass-emailig, obviously, in order to oppose to the BCS decision with Nobuko Kosuge, with her contibuous false, misleading arguments:
........................................................................................................................................................................................................................................................................
Dear Committee members of the BCS 4 April 2005

Would you pelase make photocopies of this and hand to each committee members;
Regarding the coming symposium
First I must thank you all for all your effort arranging an event to commemorate the 60th year of the war and BCS. And I especially thank for Mrs.Purvis’ effort to make it realize, and Mr.Masao Hirakubo’s deep concern.As a e-mail committee member, and as a person invited to the symposium, I feel I owe you an explanation as to why I made such a belated answer regarding my attendance at the symposium.

It was never clear how the symposium was organised, and who was chosen on what basis
I first heard very briefly of the plan of the symposium last summer after the service in Coventry from Mrs. Phillida Purvis. It was that she and Mrs. Kosuge thought of a symposium the next summer, and she wished to have it as a symposium open to all people, both academic and otherwise. As I had organised a symposium in 1998 at SOAS (International Foreign Course for Overseas Students) on the War in Burma and POWs, I thought the plan worthwhile, and agreed. I suggested that Coventry would be a good venue since the local people, including many Burma veterans, were supportive of reconciliation. However, until last December, I heard no news of further arrangements, and it came as a surprise that the guests to be invited had already been ‘decided’. It was more surprising that the main host was not the BCS. As I agreed the symposium, I had already spoken to Professor Nemoto, a specialist on Burma occupation period, when I attended the excellent sympodium on the Burma Occupation Period in last October. Mr. Oba was there as well, with whom had recommended to Mrs. Purvis in an e-mail that he could be an ideal person to invite. Prof. Nemoto told me then that even if he receives no budget, it would be possible for him to come over for the symposium. After that, I heard that Mrs. Kosuge had approached him. Other than this, no discussion was made as to the concept of the symposium. It was never discussed in an open and democratic fashion. It was a pity that when several members are quite knowledgeable about the specialists on the issue.

The concept ‘Peace and War’ – the question of the position of the BCS
When I saw the formation of the symposium, I wondered whether this would suit the BCS. While it is clearly important to discuss war and peace, the BCS has the issue of the Burma Campaign at its core, and this was not reflected in the plan of the symposium at first. It could be more focused on the war in Burma as well as other issues related to POWs, JSPs, which is a stumbling block for anglo-Japan peace. It seems rather oddly organised as well - half of the academics in the list are not specialists of either Burma or War. This is not open to the individuals, academics and groups who have already done a considerable amount of research on the war in Burma, POWs, and so forth. Certainly, they would be able to read excellent papers concerning war and peace, but the focus remains unclear. Further, I find it rather strange to have a discussion with the Japanese ambassador at the end of the symposium. It seems a jumble of all sorts of themes and topics, half academic and half not (due to their speciality), and therefore it was correct that the plan was turned down once by the Japan Foundation, and found ‘not academic’. It does not necessarily have to be academic, but the topics should be more focused.

Invitations were not confirmed
As with my consent, I realised later that the lists of academics were hypothetical. Even I was surprised by the fact my name was on the list, as I had not heard that the symposium was going ahead till December. I was astonished that the plan was presented to the Japan Foundation without each individual’s consent, because in the academic world it is absolutely necessary to have a confirmed answer in order to organise a conference. Admitting that the conference must have been organised quickly, it is clear that the names of the attendees acted, even if not meant so, to attract other participants or fund-giving parties. This is, strictly speaking, a confidence trick, and not worthy of association with the good name of the BCS. Professor Kibata in particular withdrew from the plan last October, and made clear that he cannot attend due to his commitments, yet his name was still on the list (I would imagine for the occasion of Japan Foundation). Usually, this ought to be made clear to other participants. It was because of this procedure, in the February version and the latest version, half the attending members have changed.
This ought not to be the case, and it is rather a disgrace to the name of the BCS.

Speaker’s topics for the symposium
I was asked for a summary of what I wanted to speak about after I had originally consented to appear. My title was also put forward as a hypothesis on the initial program. Again, usually the order of decision is the reverse. First you ask the participants what they wish to talk about, and second you arrange the sessions. I wish the acadmic who orgnised this could have a better knowledge of proper procedure, and dealt it with honor..


Connection with the Japanese Embassy


While the friendship with the Japanese Embassy is welcome, it has the consequence that the plan and content of the symposium has to be organised to please the people in government. We had a bad experience of this when we arranged the conference in Cambridge. The participants were selected so as not to offend or provoke both the Japanese government. The symposium seems to be modelled after the Cambridge symposium, in which some papers criticising Japan were eliminated. We must ensure freedom of expression always. I overheard that Mrs Kosuge was in charge of organising since she has connections to the foreign office. I would imagine that even if we organise the conference as we choose, it would still be acceptable to the foreign office.
Finally, it is very difficult to approve this method of organising the symposium. Initially I was not aware that I was on the list; latterly I hesitated to be included in the symposium due to the observations I made listed above. I chose to attend since I had been asked quite often, and I did not wish to provoke any further argument with other BCS members. However, hereby I present the reasons why I was not able, and then reluctant, to say ‘yes’ to attending the symposium. I hope this symposium is the first of many more, and not the last one. Also, I sincerely wish that whatever the process of organisation, the symposium will be useful and enable us to move forward in many areas of discussion. I have a kind of overall image in my mind too of what is necessary for reconciliation and clear understanding of the events of the war and the importance of the BCS in bringing this about; I wish BCS could continue in future to arrange a step forward.,being a friend member of the BCFG since 1996 I have tried very hard with other BCS current members to continue the group which was later established as the BCS. I am sure other members have a similar hope for the future of the BCS and this symposium.
In conclusion, I thank everyone concerned for their efforts in organising this symposium, and I dearly hope that next one might be organised in a more open, respectable, and democratic fashion.
Yours sincerely,
Tomoyo Nakao
BCS e-mail committee member
Associate Professror in Behavioural Sciences University of Okayama, Japan
Japan Oral History Association committee member

......................................................................................................................................................
As you see as above, Tomoyo Nakao was obviously misled and was in a bad way, on which Profs. Yoichi Kibata and Kei Nemoto totally agree with us.

To be continued



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